ヤスジのかるい思い出話(ヤスカル話) HOME
第八話 お盆特集 大間での思い出 ヤスカル話目次
 
序章、第1章(07.8.16UP)
第2章、終章(07.8.23UP)
 
序章
 
1995年のお盆休みには、彼女(翌年ぼくの妻となった)とタンデム(2人乗り)でぼくの実家のある函館までロングツーリングへ出かけた。当時はまだ高速道路の2人乗り走行は禁止されていたので、ぼくたち二人と、テントと寝袋を積んだホンダスティード400は、東京から青森までへと続く国道4号線を、お盆の渋滞につっかえつっかえ北上して行った。
 
途中どこかのキャンプ場で一泊するつもりだったのだが、ここと決めていたわけではなかったので適当なキャンプ場が見つからず、こうなったらホテルでも健康ランドでも、とにかく休める場所を探そうと思いながら走っていると、国道沿いの安ホテルに空室の表示を見つけて転がり込むことができた。お盆のせいであろう、どこもかしこも満室で、ようやく空室を見つけた頃には夜中の2時を回っていた。
 
翌朝10時にチェックアウトを済ませたぼくたちは、あいかわらず国道4号をただひたすらに北上していた。青森県はもう隣だというのに、縦に長い岩手県は行けども行けども岩手県だ。ようやく青森に入っても目的地はまだまだ先で、ぼくたちの目指しているのは青森は青森でも下北半島の先端に位置する大間なのだ。
 
大間から出航する函館行きのフェリーを予約してある。本当は15日の一番遅い便を予約したかったのだが、もしかすると当日中にたどり着けないこともあるかもしれないと思い翌朝一番の便を予約しておいたのは正解だった。やっと大間へたどり着けたのは夕方の5時近くだった。
 
 
 
第1章
 
そこにはちょっとしたリゾート地のような賑わいがあった。北海道へ渡ろうとするライダーたちが日本全国から集まってきていて、フェリーのキャンセル待ちをしているライダーたちは所狭しと波止場にテントを張っている。何軒かの商店が並ぶ、町の細い通りには、華やいだ若者たちが行き来していて、普段はのどかな漁師町も、お盆のこの時期だけは異様に活気づいていた。
 
ガリガリガリ。ぼくもスティードを波止場へ乗り入れて、夜の明けるのを待つために適当な場所へテントを張ることにした。テントを張るのはお手のものだ。ぱっぱと手際よくテントを張り終えたところまでは順調だったのだが、バイクの異常に気がついたのはテントの中へ荷物を運び終えほっと一息つこうとしたときだった。
 
リアタイヤが半分ほど潰れている。パンクだ。空気がどんどん抜けていっている。波止場の砂利道にやられたのか、それともここへくる途中でのこと?いずれにしてもなんとかしなくてはいけない。大間にたどり着いたとたんにパンクとは、途中の山の中でパンクしなかっただけよかったとも言えるが、運がいいのか悪いのか、、、一息つく暇もなくバイク屋を探しに町へ出るはめになってしまった。
 
携帯してきた足踏み式の空気入れでとりあえず目一杯空気を入れておいてから、彼女をひとりテントに残して、ぼくは町へと出た。空気が抜けきる前になんとかバイク屋を見つけたいものだが、町といっても小さな町だからバイク屋があるとは思えなかった。とりあえずガソリンスタンドへ入ってパンクの修理を申し出てみることにする。
 
「やー、バイクのパンクは、できないねえ」
「そうですか・・・とりあえず空気だけ入れさせてもらってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」
わずか5分ほどの間に空気はもう半分ほど抜けていた。
 
「この辺にバイク屋はないですかねえ?」
「バイク屋は、ないねえ。自転車屋ならそこにあっけど」
「えっ、どこですか?はいはい」
 
そうか!自転車屋ならバイクのパンクも直せるかもしれないぞ。よしよしよしっ!一筋の光が差し込んだかのように、ぼくの気持ちはパッと明るくなった。教えてもらった自転車屋はほんのちょっと先だ。よしよしよーしっ!はやる気持ちを抑えつつ、いそいそとやってきたぼくを待っていたのは、失望だった。
 
ガーーーーン、、閉まってる・・・。そう今日は8月15日、お盆もお盆、メインのお盆デーだ。普通は閉まってるよなあ、、、もしやってたとしても、もう6時近い時間じゃどっちみち閉まってるか・・・。晴れかけた気分はまた一気に曇天となった。
 
閉められた店のサッシにはカーテンが引かれていて、中の電気は消えていたのだが、カーテンは20センチほど隙間が開いていて、店の奥の住居には人がいるような気配だ。あきらめきれないぼくは思い切ってサッシの扉を引いてみた。カラカラカラ。おお、開いた!「すみませーん!」ぼくは最後の望みをかけて声を張り上げていた。
 
「すいません、バイクなんですけど、パンクの修理って、してもらえないですか」
「バイクかあ、、スクーターかなんか?」
「あ、いや、400cc のやつなんですけど・・・」
「そりゃ無理だなあ。原付とか、ちっこいのならできるけど、でっかいバイクのは、、道具ないもんなあ」
「そうですか・・・」
「そこ行って曲がったところにもう一軒自転車屋があるけど、そこならもしかしたらやってくれるかもしれないよ。バイクもちょっと置いてあるから」
 
がっかりした様子のぼくに同情したのか、店主は別の自転車屋を教えてくれた。一縷の望みは繋がった。とにかくそこへ行ってみよう。店主にお礼を言ってから教えられたもう一軒の自転車屋へ行ってみると、やはりそこも店の電気は消えていた。しかし、4枚引きの扉は少し開いていて、店の奥の電気はついている。その店は自転車を展示してあるスペースよりも作業場の方が広いくらいの所で、バイクのパンクなんて簡単に直してくれそうなにおいがプンプンしていた。
 
「すいませーん、400cc のバイクなんですけど、パンク直してもらいたいんですけど・・・」
「いやー、だめだべぇ。これから墓参りいかねきゃなんねんだあ」
「いやーそこをなんとか。東京からきたんですけど、さっきそこのフェリー乗り場についたらパンクしちゃって、、、明日朝一のフェリーに乗らなきゃならないんです。なんとかお願いします!」
「やー、まいったねえ、どうすんべ。これから出かけようとしてたとこなんだ」
「そこをなんとか!お願いします!お願いします!」
 
ぼくの必死さが伝わったのか、初老のおやじさんは土間へ降りてきて店の電気をつけてくれた。修理をやってくれそうだ。ああ・・・ありがとうございます。
 
「墓参り行かねきゃ先祖が化けて出てくるでや」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
「東京から今日着いたのか?あんたら若い人たちは船着場んところでヤエイすんだべ?」
「え?」
「いっぺえテント張ってたで。若い人らは元気あんなあ」
「あ、野営、、、はい、ぼくも今夜はテントで寝て、明日の朝一で函館まで行くんです。ええ、実家は函館なんで」
「あんたのバイク、これかい?でっけえな、750か?400?ンだか。これ、チューブレスタイヤだべ?」
アメリカンタイプのスティードのリアタイヤは車のタイヤほどの太さがあるのでおやじさんにはチューブレスタイヤに見えたようだが、これは紛れもなくチューブ入りのタイヤだ。
「いえ、チューブ入ってるんです」
「ンだか?チューブレスだべや」
 
おやじさんは半信半疑のまま、工具を持ってきて車軸のナットを外し始めた。いよいよ作業開始だ。スティードのことはなんにも知らなさそうなこのおやじさんに任せても大丈夫なのだろうか・・・一抹の不安を感じつつも、いまやすがれる人はこのおやじさんただひとり。不安と期待のこもった目でぼくはおやじさんの手元をずっと見つめつづけていた。
 
「あれ?外れねえなあ。なんだべ」
ナットと車軸を外したけれどタイヤはフレームからうまく外れないようだ。普通バイクを修理する時には、車体を修理用のスタンドに載せて、車体を垂直に立てた状態で作業するものなのだが、ここにはそのようなスタンドはなかった。バイクはサイドスタンドを出したままの傾いた状態になっていたので、タイヤには車体の重量がかかってしまっていてうまく外れないようだ。スティードは200キロほどの重量があるから無理もない。
 
「あんたちょっとここ支えといてけれや」
おやじさんはそう言うと、ぐっとサイドスタンドを支点に車体を持ち上げてタイヤを浮かせた。
「あんまりスタンドにのっけない方がいいんだべ?」
「あ、いや、ちょっとぐらいなら大丈夫だと思います」
あまり太くもない一本のスタンドに200キロの重量が一気にかかっているのに、スタンドは持ちこたえていた。ちょっとぐらいは大丈夫ですと答えたものの、けっこう不安だったのだが、スタンドは曲がることも折れることもなくしっかりとスティードを支えている。いやーすごいバイクだな、、、こんなところにもホンダの心意気を感じながら、なんとかタイヤをフレームから外すことができた。
 
「じいちゃんまだ仕事してんの?働きすぎはだめよ。フフフ」
「ああ、うん・・・」
斜め向かいの家から出てきた子連れの若い奥さんが無遠慮にそんなこと言っている。どうやら親族のようだが、おやじさんはぼくに気を使ってか、あいまいな返事しかしていなかった。ぼくはなんとも申し訳ない気持ちになった。せっかくのお盆休みにすみません・・・。
 
「よし、外れた。せば、チューブば出すか」
そう言ってゴムタイヤをリムから外そうとするのだがこれまたなかなか外れない。ぶっといスティードのリアタイヤは空気が抜けていてもゴムの厚さだけでかなりの弾力があるようだ。おやじさんは大きな金属のへらをリムの脇からタイヤの裾へ差し込んでグイグイやっているがなかなかうまくいかない。そのうち裾へ差し込まれたへらは勢い余ってビヨーンとふっ飛んでしまって、ガシャンと入口のガラスを割ってしまった。その音に驚いた奥さんが奥から出てきた。
 
「ありゃりゃ、割れてしまったんでしょ」
「しょうがねえべ」
長年の連れ合いだからこそ成立する一見無愛想な短い会話の中に、ぼくはなにか暖かいものを感じつつ、無理にパンクの修理をさせておきながらガラスまで割れてしまったことに対する申し訳なさでいっぱいだった。
 
結局2時間近くかかってしまったが無事にパンクの修理は終わった。
「ありがとうございました、ほんと助かりました!おいくらでしょうか」
「えーっと、オートバイ、、400cc っと、、5000円だな」
おやじさんは値段表を調べて答えてくれた。
 
ああ、地獄に仏じゃないけれど、あんなに苦労させたのに5000円でいいとは。1万円くらい払ってもいいような気持ちになっていただけに5000円と聞いてなんて安いんだろうと思ったのだが、それが妥当な値段だったのかもしれない。しかしガラスが割れてしまったおやじさんの方とすれば赤字になってしまうのではないか?
 
「ほらほら、これでも飲んで、元気出しなさい」
奥さんはよく冷えたオロナミンCを持ってきてぼくにくれた。そうか、ぼくはそんなにしょげた顔をしていたのか、、、ぼくはパンクが直った安堵感も手伝ってニコニコしながら少し饒舌になった。
 
「ほんとありがとうございました。ほんと助かりました。もうどうしようかと思ってましたよ。いやーそれにしてもサスガですね。やっぱプロは違いますね」
 
すると奥さんは「はっはっは」と笑って、おやじさんは「いやーなに」と照れ笑いを浮かべていた。ぼくはお世辞でもなんでもなく、おぼつかない手つきで始めたスティードのパンク修理をきっちりと終わらせたおやじさんにプロの仕事を感じてそう言ったのだったが、どうやらプロと言われたことが嬉しくもあり照れくさくもありといった様子だった。
 
もうすぐ夜の8時になろうかという時間だった。ひとりテントに残してきた彼女のことが心配だった。まだ携帯電話はあまり普及していなかった頃の話だ。おそらく向こうも心配しているだろうと思いながら、ぼくは急いで波止場へと戻って行った。
 
 
 
第2章
 
テントは、まだ未使用のテトラポットが積み上げてある場所の近くに張ったのだが、ぼくのバイクがテントの近くまでくると、彼女がテトラポットの上に腰掛けてボーっとしているのが見えた。すっかり日は暮れているものの、この時期だけの配慮であろうか、船着場周辺には臨時の裸電球がいくつも取り付けられていて、そこには縁日の夜のような明るさがあった。
 
女ひとりでボーっと腰掛けてたんじゃ危なっかしいなあと思いながら周囲を見渡すと、やはり狼が2,3匹目を光らせていて、声をかける機会をうかがっているのがわかった。あぶないあぶない。
 
「ただいまー」
「直ったの?けっこうかかったね」
「うん、近くの自転車屋で直してもらった。心配してんじゃないかと思ったけど、途中で一旦戻るには距離あったし。遅くなってしまった」
「遅いから隣町まで行っちゃったのかと思った」
「近くになければ隣町まで行かなきゃだめかと思ったけど、よかったよ」
 
ぼくが戻ってきたのを目にした狼たちは「なんだ、男いたのかよ」と言いたげにさーっと引き上げていく。あと30分でも遅くなっていたら何が起こっていたかわからないところだ。
 
「テントに入ってなきゃだめじゃん」
「初めテントの中にいたんだけど、なんにもすることないし、暑いから外出てた」
「いま戻ってきたとき見たら、何人か狙ってるやついたぞ」
「そうなの?だって暑かったんだもん」
 
パンクも無事直り、あとは夜明けの出航を待つばかりとなった。しかし寝るにはまだ早い。買出しがてらちょっと町をぶらつこうということになって、二人で歩いて商店のあるほうへ行ってみた。お盆の時期は人が多くなるとは言っても漁師町の夜は早い。夜8時を過ぎたこの時間ではもはやほとんどの店は閉まっていた。
 
とりあえず今夜の食糧だけでも買い込んでテントへ戻ろう。食料品と雑貨をごちゃっと詰め込んだような古めかしいお店が一軒だけ開いていたのでそこへ入ってみると、人のよさそうな、自分の父親よりは少し若そうなおじさんが対応してくれた。
 
「弁当なんてあります?」
「ありますよ、こちらです」
 
おじさんが指し示してくれたバナナを並べてある棚の横に、いわゆるコンビニ弁当がいくつか並べられていた。そこはチルド用の冷蔵棚でもなんでもない普通の平台だった。
 
・・・だ、だいじょうぶか? 不安を感じつつ、うーん、、、と迷っているふりをしていると、「これなんかどうです?けっこうおいしいですよ。いろいろ入ってるし」と言って、幕の内弁当をすすめてくれる。「うーんどうしようかなあ」と言いながらとりあえず手にとってよく見てみると、賞味期限が三日前に切れているではないか。
 
「うーん、これはちょっといいかな・・・」
「じゃあこれなんかどうです?わたしも食べたことあるけど、けっこう味が染みてておいしかったですよ」
 
そう言って今度はいなり寿司と海苔巻の詰め合わせをすすめてくれる。海苔巻の海苔からは黒い色素が染み出していて、ご飯の海苔に近い部分は黒ずんでいた。これもやはり賞味期限は三日前に切れている。よく見てみると、あと4つほど残っているほかの弁当もすべて賞味期限切れだ。一番新しいものでも二日前に切れていた。
 
おじさんに悪びれた様子は微塵もない。そうか、のどかなこの町じゃ賞味期限なんて気にしている人はいないんだ。巻寿司なら多少賞味期限が過ぎてたって大丈夫かな?とチラッと思ったものの、やはり黒ずんだ海苔巻には抵抗があった。彼女の顔をチラッと見ると、やはりちょっと顔を引きつらせている。
 
「やっぱりパンにしようかな。パンはあっちですか?」
「あ、パンにします?はいはい、パンはあそこです」
 
弁当から逃げるようにしてパンを並べてある棚へと移動したのだが、やはりパンも種類が少ないうえにほとんどが賞味期限切れだ。それでもパンなら多少は大丈夫だろうと腹を決めた。ほかに開いている店はなさそうだったし、愛想のいいおじさんに「やっぱり買うのやめた」と言うのも気が引けたからだ。調理パンは怖そうだったので、クリームパンとジャムパンと、あとは飲料を何本か買ってぼくたちはテントへ戻ってきた。
 
「すごいね。賞味期限なんか気にしてないんだろうね」
「いやーびっくりした。寿司の色、変わってたもんな」
 
テントの中の二人は、今遭遇したばかりの、ある種新鮮な体験を語り合いながら、空しくパンにかじりついていた。
 
 
 
終章
 
函館へ渡って三日目の朝一番のフェリーで、ぼくたちは一路東京を目指すべく大間へ戻ってきた。まだ朝のひんやりとした新鮮な空気の中をバイクは南へと走り出した。
 
800キロほどの距離を、それも一般道を、タンデムで帰っていくのは並大抵のことではなかった。帰路ということもあって疲れも相当に溜まっていた。さわやかな朝の大間を出発したまではよかったのだが、2時間も走っていると猛烈な睡魔が襲ってきた。これはいかんと自分でも危険を感じて急きょ仮眠をとることにした。
 
記念碑のようなものが設置してある、道端のちょっとした立ち寄りスポットを見つけたので、そこの芝生の上にテントを張ってひと眠りだ。こんなところでテントを張った人はかつていたのだろうか、、、なんてワイルドなんだ。しかし人の目なんて気にしている場合じゃなかった。テントの中に聞こえてくる「あ、こんなとこでキャンプしてる人がいるよ」という子供の声を聞き流しながら、蒸し暑くなってきたテントの中で二人は30分ばかりの仮眠を取っていた。
 
仮眠を取ると一時的にはスキッとする。しかしそれは2時間も持たない。しばらくするとまた睡魔が襲ってくる。そのたびに公園の片隅や川原など適当な場所を見つけてはテントを張って仮眠を取っていたのだが、睡魔の襲ってくる間隔はどんどん短くなってきた。そんな調子なので東京にはなかなか近づけない。すっかり日も暮れたというのに、二人がいたのはまだ仙台港の近くだった。
 
大間のフェリー乗り場と同じように、仙台港のフェリー乗り場でテントを張って夜を明かそうかと仙台港まで行ってみたのだが、そこは大間とはまったく様子が違っていた。フェリー乗り場も施設もひっそりと静まり返っていて、ほとんど人の気配はなかった。ときおり港内を暴走族一派のような若者が走り抜けていくだけで、とてもテントを張れるようなところではなかった。暴走族に絡まれないうちにと、急いで国道まで引き返してくる途中で健康ランドの案内板を見つけたので、今夜の宿はそこに決めた。大浴場で疲れを癒してから、いびきの響き渡る大広間で見知らぬおじさんたちに紛れて雑魚寝した。もちろん彼女は女性専用の大広間で、見知らぬおばさんたちと雑魚寝だ。
 
翌日は少し余裕があった。仙台から東京まで帰るのに丸々一日の時間がある。のんびり行っても夕方には着けるだろう。そう思っていたのだが、蓄積された疲れは一晩では回復していなかった。しかも東京が近づくにつれ気温もどんどん高くなる。睡魔との戦いはきのう以上のものとなった。もはやいちいちテントを張る気力もなくなっていて、眠くなるたびに道路の脇にバイクをとめて、ぼくはアメリカンタイプのロングシートに寝そべって5分から10分ほどの仮眠を取った。彼女は縁石(えんせき)やガードレールに腰掛けてぼくの回復をじっと待っていた。
 
それでも運転しているぼくは神経が張っているので、そろそろ休憩しないといけないぞと自分で判断ができたのだが、後ろに腰掛けている彼女はいつの間にかすぅーっと眠りに入ってしまう。ぼくの腰につかまっている彼女の手の力がふわっと抜けるのがわかる。ちょっとブレーキをかけただけで彼女のヘルメットがぼくのヘルメットにコツンとぶつかった時は眠っている証拠だ。そのたびにぼくは彼女のひざをポンポンと叩いてコラー!と叫ぶのだった。
 
東京が近づくと道路は車で埋まり始めた。まるで障害物競走だ。緊張感でぼくの眠気はすっかり醒めたのだが、彼女の方はもはやピークに達しているようで、いくら"ポンポンコラー"を繰り返してもこっくりこっくりしている。ぼくのスティードには後部シートに背もたれがついているので、普通のバイクに比べれば後部シートも安定して座っていられるとはいえ、ちょっとバランスを崩して横にでもずり落ちようものなら命に関わる。自宅まであと1時間というところまできて、彼女は睡魔に8割方負けている様子だった。
 
「寝るなー!寝たら死ぬぞー」まるで雪山遭難だ。ぼくは彼女の腕をぼくの腰に巻きつかせて、腹のところで指と指とをがっちりと組ませた。この腕の緩んだ時が彼女が眠っている時だ。ぼくは彼女の腕を居眠りセンサーとして注意を払っていた。腰に回した腕は3分もしないうちに緩む。そのたびにぼくはその手をぐっと引き寄せる。もう少しだがんばれ!
 
4号線から環七へ入って、早稲田通りを右折すると阿佐ヶ谷はもうすぐそこだ。早稲田通りと中杉通りの交差点を左へちょっと入ったところに彼女のワンルームがある。ほとんど意識も遠のいている彼女を励ましながらようやく阿佐ヶ谷のワンルームへたどり着けたのはすっかり日も暮れた夜の8時だった。
 
その日ぼくは自分のアパートのある烏山へは戻らず、旅の終りを彼女のワンルームで迎えた。思えば、目的地の函館を観光するよりも、バイクで走っていることの方がメインのような過酷な旅だった。タフさにはけっこう自信のあったぼくでさえこんなに疲労してしまったのだから、彼女の方はいかばかりかと想像するに難くはなかった。
 
ぼくは疲れた身体をベッドに横たえながら今回の旅を思い返していた。こんなに過酷な旅だったに、彼女からはただの一度も不平や不満の言葉がなかったことに、ぼくの頭の中はジンジンしていた。その夜ぼくは、彼女に初めて、愛してると言った。
 
 

 
 
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