ご本人の許可を得ていませんが、プライバシーに関わりそうな部分は一部修正したうえ、いただいたメールの全文を転載いたします。(もしNGでしたらすぐに取り下げますのでご連絡ください。)ヤスジ直通のメールフォームには返信を希望されない方はメールアドレスを記入しないようお願いしてあってこのメールには返信用アドレスは記入されていなかったのですが、これにはどうしても返信したい!わが青春の阿佐ヶ谷グリーンアパート。語らずにゃおられん!私信ではありますが、この場を借りて返信いたします。どうぞしばしお付き合いください。
○●○のんちゃんからのメール●○●
はじめまして。
私、阿佐ヶ谷に住んでいたのんちゃんと申します。
主人は 阿佐ヶ谷=どくだみ荘 と以前から申しておりましたので、
昨日インターネットで検索してしてみました。
驚きました!
貴方様のアパートの見取図、(部屋の配置、トイレ、階段、ドアの開く方向、鍵穴)
もしかして、もしかして、
阿佐ヶ谷北4-*-* ではないでしょうか?
管理人さんは佐伯さんではないでしょうか?
小柄なおじさま、○郎さん。おじさまより背の高いおばさま。
申し遅れました、私同住所に住んでいました。
グリーンアパートの隣の平屋です。
角の家がピアノの先生の○○様、我が家、グリーンアパートでした。
昭和36年、北海道札幌から引っ越してきました。
私と弟は父が転勤先の札幌で出生しました。
それから、大阪万博の閉幕した秋転勤で関西(西宮)へ引っ越しました。
9年間でしたが、幼少期を過ごした阿佐ヶ谷!大好きです。
今でも一番行きたいのは、阿佐ヶ谷です。
当時グリーンアパートは人口密度が高かったです。
ブログにあった昭和42年の柱の傷、たぶん「かっちゃん(s36生)」です。
3人暮らしでした。
その隣は「たー坊」一家
4人暮らしでした。
管理人の佐伯さん「こうちゃん、いさおちゃん」
まだまだ小さい子いました。
アパートの方達は洗濯を階段の下(外)で手洗い、おしめとかも風になびき
良き昭和の時代でした。
鉄製の階段でもよく遊びました。
階段の下は三輪車やら、手押し車。
懐かしい思い出です。
まだ、コンビニもなく、駅からの大きな道路もなかったです。
当初は阿佐ヶ谷駅の中央線は踏切、高架ではなく、バスはボンネット。
引越す数週間前に西友がOPENしました。
北側に郵政省の官舎がありました。
後に整備されアパートになったようです。
毎日そのあたりで遊び、最後は家の前、アパートあたりで遊ぶのが日課でした。
阿佐ヶ谷の家は20年前位に売却しました。そして関西で購入しました。
今はその場所に3階建てが2棟建っていると人づてに聞きました。
初めてなのに長々と書いてしまい申し訳ありません。
嬉しくて、嬉しくて、
懐かしくて、懐かしくて、
ありがとう!
当時ののんちゃんは**歳、奈良で暮らしています。
もうすぐ、阿佐ヶ谷七夕ですね。
また、阿佐ヶ谷のこと書いてくださいね。
(注釈:本文中のアパートの見取図とは
これや
これとのことです。)
◆◇◆ヤスジの返信◇◆◇
インターネットが普及したおかげとはいえ、こんな奇跡的な出会いがあろうとは、ただただ驚くばかりです。もううれしくなっちゃって、強引なる返信となりますがどうかご容赦ください。
ぼくがグリーンアパート最後の住人です。昭和64年=平成元年、ぼくの卒業と同時にグリーンアパートは取り壊され今のマンションが建てられました。2階の5部屋の住人はもうみんな出てしまっていて、ぼくが一番最後まで残っていました。3月の卒業式が終わってからぼくも退去しました。最後は大家の佐伯さんご夫婦が見送ってくれました。奥さんが、「今度は奥さん連れて遊びにきてね」なんてことを言ってくれたのが印象に残っています。もう取り壊されることはわかっていたのに、出るときには天井近くに取り付けられた踏み台を使わなければ手の届かない棚の上まできれいに掃除をして出てきました。それほど愛着のある部屋でした。グリーンアパートで暮らしたのは大学へ通っていた4年間だけでしたが、今でも一番印象深く、ぼくの人格形成にも大きく影響した期間だったといえるかもしれません。少々大袈裟ですね、、、
角の家がピアノの先生宅というのは知りませんでしたが、そういえば窓からアップライトピアノの置いてあるのが見えていたような気がします。おそらくのんちゃんの住んでいらした頃にはまだ建っていなかったと思いますが、そのピアノの先生の家は白く大きな家で、それは今でも当時のままの姿で建っているようです。先ほどグーグルマップのストリートビューで検索してみたところバッチリ写っていました。
あ、いや、今記憶が少し戻りましたが、この白い家はぼくがグリーンアパートに入居したときにちょうど建築中だったような気もします。建売住宅だったんじゃなかったかな?たしか5000万円かそのくらいの値札が付いていて、さすが東京は違うなあ、、と思った気もします。もっと高かったかな?8000万か1億だったような気もしますが、とにかくかなり高かった。こっちの記憶が正解だとすると、その頃にはもうピアノの先生はそこにいらっしゃらなかったのかもしれません。
のんちゃんの住んでいた平屋があったところには3階建ての家が建ってますね。そしてその奥がグリーンアパートのあとに建てられた佐伯マンション。当時の建設予告看板には仮称佐伯マンションと書かれていたと記憶していますが、最終的には「佐伯ハイム」となって今に至っているようです。今現在空き部屋はなさそうです、、、ってなんでも検索しちゃったりして。
(クリックで拡大)
この手前から奥へと続く砂利道は、もしかしてのんちゃんが住んでいた頃のままなんじゃないですか?少なくともぼくが住んでいた頃からは変わっていません。
むかしはあの6畳一間の部屋に家族で住んでいたんですね。いやあすごい。まあその当時は別に珍しいことでもなかったのかな?それにしてもあの柱の傷の主がわかろうとは、まるでタイムマシーンで過去を覗いたような気分です。佐伯さんの小さな息子さんたちは、ぼくが住んでいた頃にはもちろんもう大人で、1階の入って左側の部屋に住んでいました。佐伯さんご夫婦は入って右側。右側は3部屋分を自分たちの住居としていたと記憶しています。
阿佐ヶ谷の家は20年程前に売却されたということは、グリーンアパートが取り壊されたのとちょうど同じ頃か、何年かあとのことですよね?ということは、ぼくが住んでいた頃はあのお隣りの平屋は借家として貸していたのですか?ぼくがグリーンアパートに住み始めたときにはそのお家にはすでに誰かが住んでいたのか空家だったのかはよく覚えていませんが、とにかく途中で誰かが引っ越してきたのはよく覚えています。というのは、その家族が引っ越してきた当日、引越し屋の関西弁の兄ちゃんと佐伯のおじちゃんが喧嘩をしていたから。トラックを止めた場所がどうとかで言い合いになっていて、兄ちゃんのほうがわざと憎たらしい関西弁でまくし立てるもんだからおじちゃんもそうとうカッカきたようで、「バカヤロウ!ここは俺の土地だ!」と声を荒げていました。迷惑なのはその引越しを頼んだ家族だったでしょうね。そこの奥さんらしき人が騒ぎに気付いて途中で出てきて佐伯さんに平謝りでした。そんな様子をぼくは2階の自分の部屋で聞いていたのでした。
もちろんご自分のお家ですからよく覚えていらっしゃると思いますが、お隣りにはけっこう広いお庭があって、ぼくの部屋からよく見えました。(別に覗いていたわけではありませんが。)どういうわけかあのお庭の景色は今でもたまに夢に出てきます。そういえばそこの旦那さんはいつも日が暮れた頃に「ただいまー!」と大きな元気な声を出して仕事から帰ってきてました。なんでそんな場面を覚えているんでしょう・・・人の記憶は不思議です。
記憶といえば、アパートの住人が洗濯をしていたという階段の下の水道、ありましたありました。ぼくが住んでいた頃にもそれはありました。たしかもう水は出なかったような気がしますが、石製の洗い場からにょっきりと水道の蛇口が立っていました。そうだ、あの木製の郵便受けもきっとグリーンアパートが建てられた当時のままだったんだろうな。いやあ記憶がどんどん繋がります。
駅前の西友はよく利用していました。あの西友で買ったチャイナ鍋はいまだに重宝しています。1000円で買いました。ってこれはどうでもいい情報でしたね。のんちゃんが住んでいた頃はまだ大通りはなかったとのことですが、西友の前の道はやはりむかしから中杉通りと呼ばれていたのでしょうか?中央線が高架になったときに整備され拡張されたのかもしれませんね。中杉通りとほぼ平行して左側に細い道の商店街がありましたが、その途中の古本屋もよく利用していました。カーブの手前くらいにあった古めかしい古本屋です。ぼくが住んでいた当時でそこの店主はかなりのおじいちゃんだったから、もしかするとのんちゃんが住んでいた頃からその古本屋はあったかもしれませんね。
いやはや思い出はどんどん湧き上がってきます。
とりあえず本日はこんなところにしておきます。
メールをありがとうございました!
最後に、このグリーンアパートのこと、阿佐ヶ谷で暮らしていたころのことを元に、以前歌をつくりました。僭越ながらその歌詞を掲載させていただきます。天井の節穴がぼくのことを見ている目ン玉だ、って歌っています。その目ン玉の主がまさに今、目の前に出現したような、そんな気分です。あの目ン玉はのんちゃんの目ン玉だったんですね!・・・ってちゃうわ。
目ン玉のブルース (作詞/作曲:ヤスジ)
マイナス5℃の国から 今朝早くすべり込んできた
青い列車のシートに 19歳のぼくがいた
くたびれて色あせた スポーツバッグをパンパンにして
踏み出した このホームへ その一歩こそが始まりなんだ
中杉通りを10分 下りたところには40年前の
オンボロのアパートが すました顔で待っていた
コツコツと音たてて 黒く錆びた階段を上った
始まった この町で ぼくの本当が始まったのさ
鍵穴から延びている 一筋の光が
薄暗い共同廊下の 壁に突き刺さってる
寒い朝日のあたる畳の上で ごろりと寝転んで
天井を見てたんだ お腹がすくまで見ていた
覗いてる フシ穴が 40年前の目ン玉だ
19歳の このぼくの 19年先も見えてるのか?
そのうちハラペコになって 歌を始めたんだ
目ン玉に見られながらね ずっと歌いつづけた
こんな日が来るなんて 目ン玉は知ってたの?
歌うのをやめたんだ お腹がいっぱいだ
始めよう始めよう あのホームから始めよう
大丈夫さ大丈夫さ あの光はまだ刺さってる
おお・・・
『目ン玉のブルース』 DEMO音源 by 桃色天狗
(2007.8.31 STUDIO LIVE REC.)